沖縄県の歴史について

沖縄県の歴史について

沖縄は過去琉球王国として繁栄し、外国から様々な影響を受けながら独自の文化や風習が発達してきました。その後も様々な変化を経て、現在の沖縄県へと至ります。沖縄の歴史を知って様々なことを学びましょう。

先史時代

いつから沖縄に人類が住むようになったのかは現代でも定かではありません。

しかし、那覇から出土した山下洞人の骨は3万2千年前、具志頭村から出土した港川人の骨は1万8千年前のものであることから、かなり古い時代から沖縄で人が生活していたことが推測されます。

日本本土と同様に、九州から伝わったとされる縄文土器、弥生土器が出土している他、中国の戦国時代に流通していた明刀銭も出土していることから、当時から沖縄と中国大陸には繋がりがあったのでは、と言われています。日本本土の縄文時代、弥生時代に当たるこの時代は「貝塚時代」と呼ばれています。

その後、貝や魚などを採取して暮らしていた時代から、穀物や野菜を栽培する農耕社会へと時代は移行していきます。日本本土の鎌倉時代に当たるこの時代は、「グスク」と言う聖地を中心とした集落で人々の生活が営まれていたことから「グスク時代」と呼ばれています。

グスク時代の後半からは、各地域でアヂと呼ばれる有力者が登場し、宗教的・政治的な活動も見られるようになってきます。

三山時代

日本本土では室町時代の頃、沖縄本島では中部、南部、北部それぞれに実力者が台頭する「三山時代」を迎えます。それぞれ当時の中国大陸と交流を深め、しばらくは勢力を保っていましたが、1429年に南部の佐敷のアヂ、尚巴志によって統一されついに「琉球王国」が成立することとなります。

琉球王国(第一尚氏王朝)

尚巴志によって統一されたこの王国は、「第一尚氏王朝」と呼ばれています。

尚巴志は政権を握ると、日本や中国、東南アジアなどの海外との交易と農業に力を入れていきます。また、それまで中心とされていた浦添城から、首里城を王都としたのもこの頃だと言われています。日本から仏僧を呼びこみ、神社や仏寺を建立したのもこの頃です。

しかし、尚巴志が亡くなった後権力基盤が安定せず、王位継承をめぐる内乱やアヂによる反乱が起こるなど、政治的に不安定な時代が続きます。そして1469年、不満を持った勢力が王族を首里城から追放したことにより、統一からわずか40年で第一尚氏王朝は滅びることとなるのです。

琉球王国(第二尚氏王朝)

前述の勢力の中心人物だった内間金丸が王位につき、「第二尚氏王朝」が始まります。

第3代国王の尚真王は、それまで地方で勢力を奮っていたアヂたちを首里に集め身分制度を整えたり、宮古・八重山を平定して国力を強化したり、中国とより積極的に交友したりと輝かしい業績を残しました。内治的にも外治的にも優れていたこの時代は、「琉球王国の黄金期」と呼ばれています。

また、海外との交易を通じてさまざまな国の文化の影響を受けたことによって、「玉陵」や「園比屋武御嶽」などの石造建築や、漆器、織物、舞踊などの沖縄独自の美術工芸が栄えたのもこの時代です。

しかし、日本本土では江戸時代に入り幕藩体制が敷かれた頃、それまで日本から政治的干渉を受けていなかった琉球王国にも徐々にその手が伸びてきます。1609年、王国からもっとも近い薩摩が武力制圧したことにより、琉球王国も幕藩体制に組み込まれることとなるのです。

近世琉球王国

幕藩体制に組み込まれた後、第二尚氏は存続したものの琉球王国は間接的に薩摩に支配されるようになります。

また江戸幕府に対しては、琉球国王即位の際や幕府将軍襲職の際に派遣される「江戸上り」とよばれる使節を送ることを義務化された一方で、中国大陸との交友も継続していました。当時の沖縄は薩摩藩と中国のどちらにも属するという体制をとることで、引き続き琉球王国の独立性、また琉球文化の独自性を維持していました。

アメリカのペリーが浦賀に来航し日本本土が日米和親条約を結んだ1854年、ペリーは琉球王国にも来航します。そこで、水・食料・燃料の補給、遭難船の救助、アメリカ人墓地を設置などを定めた「琉米修好条約」が締結されます。

それまで鎖国していた日本本土がこの条約によって近代国家への道を歩み始めたように、ここから琉球王国も新しい時代を進んでいくこととなりました。

明治政府により廃藩置県が進められた1871年、琉球王国は鹿児島県の管轄下におかれ、翌年には「琉球藩」が設置されます。

政府は琉球藩に対して、中国大陸への朝貢の差し止め、琉球国王の上京、王府の廃止などを要求しますが、当時の王府は従おうとしませんでした。

1879年、約600人で来琉した政府は首里城で廃藩置県を宣言、そして「沖縄県」を設置し、首里城の明け渡しを命じます。これによって、450年続いた琉球王国の歴史は幕を閉じることとなりました。この事件は「琉球処分」と呼ばれています。

沖縄県誕生

琉球王国は沖縄県として正式に日本に組み込まれましたが、制度や風習の違い、また政府への反発などからなかなか日本本土と同じように近代化を進めることができずにいました。

そのため、明治政府は当面の間、沖縄県では琉球王国時代からの取り制度、租税制度、地方制度などを引き続き採用し、少しづつ改革していく「旧慣温存策」が採られました。しかし、その策が沖縄県の近代化を遅らせ、結果的に県民の生活は苦しいものとなっていきます。

生活難から政府への不満が募った県民は、県内各地で集団抗議活動を行います。特に宮古島では、廃藩置県によって減税されるはずだった人頭税が旧慣温存策のため課され続けていることに異議を唱え、1903年ようやく廃止されます。

宮古島の人頭税廃止運動で抗議活動はさらに盛り上がりをみせ、沖縄県当局でもようやく改革を進める運びとなります。しかし、その政策は実質的に沖縄県民を差別するような内容になっていたため、それに反対した県庁職員の謝花昇は退庁後「沖縄倶楽部」を設立。自治権、参政権獲得を目指しさらに抗議運動を盛り上げました。

志むなしくも沖縄倶楽部は1898年に消滅してしまいますが、その後沖縄県でも徴兵制、地租改正、市町村制、府県制、衆議院議員選挙法などが徐々に試行され、本土に遅れつつもようやく近代化への道を歩き始めます。

なお、大正時代の沖縄本島内には4社もの鉄道会社が営業しており、北は嘉手納から南は糸満まで運行していました。

昭和に入りバス会社が参入してきたことで鉄道の利用客は減少し、鉄道各社は続々と廃業に追い込まれてしまいます。また、残った路線も太平洋戦争時には旅客営業を停止し軍用鉄道とされ、その後戦争の激化により鉄道施設は破壊されてしまったのです。

戦後、破壊されたレールは撤去され鉄道施設も軍用地へ転用されてしまったため、当時の面影を残す鉄道敷跡はわずかです。そのひとつに、2015年の那覇バスターミナル再開発工事の際に発見された当時の那覇駅の転車台の遺構があります。こちらは現在、那覇バスターミナルに隣接する交通広場に移設され、一般公開されています。

太平洋戦争時の沖縄

1941年に始まった太平洋戦争においての沖縄は、アメリカからは日本本土を攻めるための基地として、また、日本本土からは本土防衛のための基地として見られるようになります。

いずれ沖縄地上戦が予想される中、県内では児童や老人などを疎開させる動きが始まります。1944年、学童疎開者を輸送中の対馬丸がアメリカ海軍の潜水艦の攻撃を受け沈没する事件が起こり、800人近いこどもを含む犠牲者が出たことから、県民の疎開への不安が募ります。

しかし、その状況は同年10月10日に起こった通称「10・10空襲」により一遍します。

1944年10月10日午前6時40分、アメリカ軍の艦載機のべ1400機が北は奄美諸島から南は石垣島までの南西諸島全域を無差別に爆撃しはじめました。この攻撃により、那覇の市街地の9割が消失、約600人が犠牲となり、住居を失った人は5万人にものぼりました。

それまでも戦争に備えて男子学生に対して軍事教育を、女学生に対しては看護教育を行ってきましたが、10・10空襲を受けてからはその動きはより強くなります。1945年2月以降、男子生徒は「鉄血勤皇隊」、女子生徒は「ひめゆり学徒隊」などの従軍看護婦隊として戦場へと駆り出されるようになっていきます。

そして1945年3月26日、ついにアメリカ軍は沖縄の慶良間諸島に上陸。それからたった数日後には沖縄本島中部の西海岸に上陸しました。ここから約3か月間、沖縄で地上戦が行われることとなります。

本島上陸からわずか2週間で本島中部から北部にかけての地域はアメリカ軍に占領されます。日本軍は主に本島中部で戦っていましたが、その後追い詰められ首里城地下にあった司令部を捨て、本島南部へと移ります。この時の攻撃により、首里城は跡形もなくなくなってしまいました。

なお、首里城地下司令部の跡は現在も残っていますが、崩壊の危険性などから2020年9月時点では一般公開はされていません(今後公開を検討するための委員会は発足しているようです)。

そして1945年6月23日、ようやく沖縄戦は終了します。

沖縄戦によりアメリカ側で1万2520人、日本側は18万8136人が亡くなったとされています。そのうち沖縄県出身の軍人は2万8828人、それ以外に一般人も9万4千人もの人が犠牲になりました。なお、軍人には鉄血勤皇隊やひめゆり学徒隊などの学生も含まれています。

糸満市には鉄血勤皇隊を祀る「沖縄師範健児の塔」や、ひめゆり学徒隊を祀る「ひめゆりの塔」が建てられています。

戦後沖縄~現代

1945年8月15日、天皇から「ポツダム宣言」を受諾したことが伝えられ、日本は終戦を迎えます。そして沖縄はアメリカ軍の直接支配下におかれることとなりました。

戦後、アメリカ軍は日本全土を占領し各地に基地を設けました。それから1951年に調印された「サンフランシスコ平和条約」により日本は独立を果たしますが、沖縄はその後も依然としてアメリカ軍の統治下にありました。

沖縄が統治されている間、アメリカ軍は沖縄を徐々にアメリカ仕様にしていきました。例えば、それまで左側通行だった自動車は右側通行に、通貨も米ドルに、そして日本本土と沖縄を行き来する際にはパスポートを必要としたのです。

さて、時を少し遡り1950年、アメリカ軍は沖縄統治のために「琉球列島米国民政府」を創設します。それから1952年には米国民政府が指名する沖縄県民を行政主席とした「琉球政府」が創設されます。琉球政府には立法権・行政権・司法権が与えられていましたが、米国民政府の一存で決定を破棄できるという不平等なものでした。

また太平洋戦争終了後、アメリカはソ連と冷戦をはじめたことでより多くの基地が必要となり、その建設のため沖縄県民から土地を取り上げていきました。

それから米軍の戦闘機が県内の小学校に墜落し多くの被害者を出した「宮森小学校ジェット機墜事件」や嘉手納飛行場での「B-52爆撃機炎上事故」など、基地があることに起因した事件・事故が度々起こったことから県民の反発は強まり、沖縄各地で復帰運動が行われます。

1970年、アメリカ人が県民を轢いた交通事故をきっかけとして県民の不満はピークに達し、アメリカ人の車両約80台を焼き払いさらに石を投げつけるという「コザ暴動」が勃発します。

そして1972年、粘り強く復帰運動を行った結果「沖縄返還協定」が結ばれ、ようやく沖縄は日本に復帰しました。しかし、基地は県内に残ったままで、復帰から50年近く経った現在でもほとんど返還されていないことから、今でも基地返還運動は続いています。それでも沖縄の日本復帰は沖縄にとっても日本にとっても悲願だったので、1975年には沖縄の日本復帰を記念して、「国際海洋博覧会」が開催されました。その跡地は「国営沖縄海洋博覧会記念公園」として現在も運営を続けています。

まとめ

これまで先史時代から現代へと続く沖縄が辿ってきた歩みを振り返ってきました。改めて振り返ると、沖縄は激動の時代を幾度を経験してきたことが実感できます。このような知識を得ることで沖縄に新しい見方ができるのはないでしょうか。この記事が少しでも皆様のお役だて頂ければ幸いです。

               

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